今月のびっくりどっきりCD
2003年の私的ベスト10(終)
(2004.7.9.)
半年にわたって昨年度分新譜からの私的ベストCDを10回に分けて取り上げました(都合により10枚以上ありますが)。 とはいっても順番通りにランク付けしたわけではないので念のため。 最終回は再び日本に戻ります。

橋本國彦 Kunihiko Hashimoto(1904-1949)
感傷的諧謔 (1928)

宮原禎次 Teiji Miyahara(1899-1976)
交響曲 第4番 ≪12月8日≫(1942)

大澤壽人 Hisato Ohzawa(1907-1953)
ピアノ協奏曲 第3番 変イ長調 ≪神風協奏曲≫(1938)

野平一郎(p/≪神風協奏曲≫)
本名徹次/オーケストラ・ニッポニカ
※2003.2.東京、LIVE
(日本ミッテンヴァルト MITTENWALD MTWD99011)

先人の功績を水泡に帰したツケは誰が払うのか
ここに挙げられている3曲はいずれも戦前〜戦中の作品、そしてこのCDが初演あるいは戦後初蘇演だという。戦前の日本人作曲家によるクラシック(現代) 作品は戦後60年になろうとする現在、まるで無かったか稚拙なものしかなかったような説が一般的だ。ところが実際は20世紀の初頭、国内に音楽教育の システムすら影も形も無かった(無論音楽の先生など居るわけが無い)時代にに山田耕筰は独学で日本人初の交響曲(≪交響曲・勝鬨と平和≫)を書き、 バレエのための管弦楽曲や大規模な合唱曲を生み出していたし、この3人も国内外で修行or作曲活動を開始していた。

橋本國彦の曲では≪交響曲第1番≫が名作として知られているが、実はつい最近まで全く録音が無かった。楽壇関係者で知らぬものは無いこの曲が LP、CD一枚にもなっていなかったという理由がもしも「皇紀2600年記念のために書かれた」であったら全く馬鹿馬鹿しい話である。靖国神社について 外国に向けてきちんと申し開きが出来ないというのに参拝だけは続ける、という無節操さを露呈する国民が「皇紀2600年」の一言で優れた作品を 見捨てるとはいかなる理屈だろうか。まあ、後続の者たちがこれに匹敵する作品が残せていなかった、 という理由だったらわからないでもないが(嫌味)。
それはさておき、≪感傷的諧謔≫とか書かれると何の事やらだが欧文表記だと「スケルツォ・コン・センチメント」。要は交響曲の第3楽章あたりが 単独で演奏されるようなものだと思えばいい。件の交響曲を書く10年近く前の作品で、現在だったらいざ知らず、西洋音楽が入ってきて間もない1920年代の 日本において、本格的なオーケストラ曲を24歳の日本人が仕上げてしまっている事が驚異的。日本的情緒の織り込まれたブルックナー風スケルツォ、 といったら乱暴だろうか。ドイツのロマン派・近代作品を聴くように大変取っ付きやすい曲だ。

交響曲や何曲かの交響詩を残した山田耕筰ではあったが、従来歌や踊りが音楽の中心の日本人には論理的構成が伴う純器楽曲は不向きである、として 徐々にオペラや歌曲の創作に力を注いでいくことになる(だから今まで山田耕筰の純器楽曲は顧られる事が少なかった)。それに対し積極的に 交響曲等の絶対音楽の分野に進出していったのが弟子の宮原禎次。6つの交響曲や≪ピアノ協奏曲≫など大作を残しているが、今では全く知られていないに等しい。
≪交響曲第4番≫には初演当時『12月8日』というタイトルがついていたが、これは大東亜戦争開戦一周年記念ということで当時の放送局依頼されて 作曲したかららしい。これも「戦争」という作曲動機のみで今まで無視されてきたというのなら、日本人はあの戦争で「文化的価値判断」においては 何も学んでいない事になる。もっとも肝心の曲が凡作なら忘れられても仕方ないが、残念な事に(笑)面白い。
戦争ネタだからかも知れないが、第1楽章はジャジャジャジャーンと金管の咆哮で開始。吉松隆の≪交響曲第5番≫に似ていなくもない(順番からいえば 逆なんだが、この場合はどうでもいい話)。闘争的な第1楽章の後は戦没者追悼の気分の第2楽章、そして第3楽章はいきなり木曾節っぽい陽気な音楽。 終楽章は第1楽章の闘争を引き継ぎ、さらに発展し最後は大勝利な感じで大団円。アッパラパーの軍歌調のコーダはともすれば安っぽい印象を与えかねない 気もするが実演で聴けば熱狂する事必至。人間って単純にカッコいいものには惹かれるのだ。

そしてこのCDの白眉は間違いなく大澤壽人≪ピアノ協奏曲第3番≫だ。初演時には『神風協奏曲』と呼ばれていた。「神風」とは 作曲年からもわかるように特攻隊のことではなく、国産機「神風号」の作った東京〜ロンドン間最速飛行記録に題材を得たことに因るもの。といっても 聴く時はそれにとらわれる必要は無い。
まず、初めて聴いて「本当にこれ戦前の日本人が書いたの?現代作品じゃないの?フランスやロシアの曲じゃないの?」と 感想を持つ人は少なくないだろう。そしてなぜこんな力作が全く知られていなかったのか不思議に思うに違いない。第1楽章のバルトークやプロコフィエフも かくやと思わせる強靭なリズムとブラスの響き、その間を超絶技巧で駆け巡るピアノを聴けば、当時日本最高の作曲家と現在評価されるのも頷ける。 うって変わってジャジー&ブルージーな第2楽章ではサックスのソロがいい味を出している。ガーシュウィンやコール・ポーターも消化して東洋風に 変容されているのか?そして酒場でのダンスのように始まる第3楽章は相変わらず高度なテクニックが必要なのにどこまでも陽気なピアノ・ソロと、 もうゴキゲンとしか言い様のないブラス吹きまくりのカーニバル状態で終結する。
このとんでもなく面白い曲は初演された後、再演のめども立たず そのまま忘れられてしまった。日本一難しいと言われる(今でも)ピアノ・パートもその原因の一つだが、作風があまりにもモダンでカッコよすぎたために 当時の日本人には理解できなかったというのが最大の理由のようだ。アメリカやフランスで初演すれば大成功したかもしれない。しかし当時、 2つの国は敵だった・・・ルーセルやイベールなど当時の海外の大家にも認められていたすごい人だったが母国はそのすごさがわからなかった。 そして戦後は作品どころか名前すら忘れてしまったのだ。

悲しい事に何時の時代でも「不当に無視され、忘れられた存在」というものはあるものだ。 第2次大戦前、ナチスの専政に伴うレベルの低い文化的価値判断からユダヤ人芸術家は迫害され、その中でマーラーやメンデルスゾーンは 全く演奏されなくなってしまった。これは後々まで尾を引き、マーラーの生前の本拠地であったウィーンでは弟子のブルーノ・ワルターが 亡命してしまった1930年代以降、その作品の演奏の伝統はほぼ途絶えてしまっていた。1970年代にヨーロッパに進出してきた バーンスタインはリハーサルでマーラーの曲に嫌悪を表すウィーン・フィルの面々を前に嘆く。 「なぜこの曲の良さが解らない?君たちの街の音楽家なのに!?」

ウィーン・フィルがマーラーをレパートリーに復活させるまでに一体何年かかったのだろうか。 リセットは一瞬だがリカバリーは長い時間がかかるものだ。


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2004.Same.,Fancy Free