今月のびっくりどっきりCD
2003年の私的ベスト10(5)
(2004.3.16.)
現在、昨年度分新譜からの私的ベストCDを10枚取り上げています。 とはいっても順番通りにランク付けしたわけではないので念のため。 今回は40年前のライヴ。

ヨハン・セバスティアン・バッハ Johann Sebastian Bach(1685-1750)
管弦楽組曲 第3番 ニ長調 BWV.1068

ウォルフガンク・アマデウス・モーツァルト W.A.Mozart(1756-1791)
交響曲 第29番 イ長調 K.201

ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン Ludwig van Beethoven(1770-1827)
交響曲 第6番 ヘ長調 op.68 ≪田園≫

オットー・クレンペラー/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
※1964.5.31.ベルリン、LIVE
(英テスタメント TESTAMENT SBT2 1217)

帝王の楽団をも自己流で操った孤高の人
新譜の選定とか言いながらも実は今回のラインナップには本当の意味での新録音は現代ものやマイナー曲以外では殆ど無い。要は新録音で 余所様に手放しでお奨めできる有名曲のものが全然見当たらないからで、これはスヴェトラーノフのところでも書いたが安全運転で没個性の演奏が 多すぎるという事に他ならない。
ところでクラシック音楽をこれから聴いてみようとして「曲を理解しやすい標準的な演奏」というものを求めようとすることがよくあるが、これこそ いつまで経ってもクラシック音楽が面白いと思えない諸悪の根源ともいえるものだ。「標準的」とか「普通」とは一体何を根拠にしているのかわからないが、 ただ漫然と音にしているだけの演奏家の意志が反映されていない(or反映しようとしていない)ものなど逆に曲への興味を阻むものでしかない。 「ここを聴け!」「この曲はここが面白いんだ!」「この曲のオレのイメージはこうだ!」と極端でもいいから突出した表現のある演奏の方が 面白いに決まっているし、他の演奏はどうだろうかとか他の曲を聴いてみようかという興味の連鎖が起こってくるのだ。

クレンペラーは、マーラー直系の弟子で戦前から戦後にかけての所謂大指揮者の一人。戦前から俗っぽい逸話にも事欠かないかなりの有名人で当時の キャバレー・ソングの歌詞にも出てくるほど。この頃はフルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、トスカニーニ等、現在では考えられないような とんでもない才能の持ち主がヨーロッパに君臨していたわけで(さしずめ中国の五賢帝みたいなものか)、この人たちの演奏はわずかな例外を別として 殆どがモノラル録音だが、例え音が良くても面白くない新録音を聴くよりもはるかに得られるものが多いに違いない。
若い頃は自ら新古典主義的な作品を書き、現代ものを好み先鋭的な演奏が多かったクレンペラーは人生の後半は事故や病気と度重なるアクシデントに 見舞われる。しかしその度に再起不能と噂される中でも奇跡的に復帰し、さらに驚くべきは復帰の度に演奏のスケールや深みが増していく事で、 最晩年には若い頃の才気走っていたところが嘘のようなとんでもなく巨大な音楽を聴かせるようになっていた。マーラーの≪交響曲第7番≫メンデルスゾーンの≪スコットランド≫での空前絶後の超スローテンポに拠って創り出された気が遠くなるような空間感は クレンペラーの独壇場といえるだろう。

さてこのCDは晩年のクレンペラーがカラヤンの統治下にあって全盛期を迎えていたベルリン・フィルに客演し当時非常に話題になった演奏会の記録で、 今回が初発売のドイツの放送局に残っていた音源。1960年代にレコードは既にステレオ録音になっていたが、当時の放送局の事情により残念ながらこのCDは モノラル。しかし音の分離は良く、モノラルとしては高水準のものなので観賞するには全く支障が無いだろう。
当日の演奏会のプログラム通りに収録されているが2枚組の1枚目には≪田園≫の第1楽章のリハーサルが40分以上収録されていて大変貴重。 ベルリン・フィルが飽きるほど演奏しているはずのこの曲を入念にチェックし何度も繰り返し演奏させ、滑らかで人工的な響きを主体としていたカラヤン体制の ベルリン・フィルから全く異なる自己流の響きを引き出してしまっている。カラヤンならば弦を主体にして他のパートは隠し味程度にしか扱わないところ (その方がムード調で快く聴こえるから)をクレンペラーは他の楽器にも強奏させて弦の音にわざとぶつけ、これが単に「田舎に着いた時の朗らかな」 ものではなくて非常にアグレッシヴな音楽である事を示してみせる。実際に2枚目の実演では遅めのテンポにもかかわらず一触即発の得体の知れない力が 渦巻くように感じさせて(田舎の心象風景を綴った作品なのに)なぜか手に汗握る凄い展開。第4楽章『嵐』での爆発ぶりは言うに及ばず、 だからこそ続く第5楽章の美しさが強調され崇高さすら感じさせる事になる。クレンペラーの巨大な表現とベルリン・フィルの本来の高度な 合奏力が合致した結果の名演だ。例のノリントンの快速軽量級演奏とは全く正反対のコンセプトだがこれも一つの行き方であり、どちらが 正しいかという問題ではない。

他の2曲も秀演。バッハのこの組曲はクレンペラーが好んで採り上げていたもの。まだ古楽研究が進んでいない時期のために大編成による ロマン派風解釈だが、気宇壮大な第1曲『序曲』や「劇場版エヴァンゲリオン」に使われた(あれは酷い演奏だった)第2曲『アリア』の朴訥な 表現もこれはこれで面白い(それで何ら本質を損なわれないバッハの曲も凄いが)。
モーツァルトも本来のロココ風の典雅な趣きとは異なる骨太な表現だが、 代わりに古典交響曲の造形美が浮き彫りにされ、これが最後の三大交響曲に続く道の入り口である事を思い出させてくれる。

それにしてもマーラーやワーグナーでも演ればいいものをわざわざカラヤンがレパートリーの中心にしている曲とカラヤンの息がかかったオーケストラで 全く違う音楽を聴かせて聴衆の話題をさらうとはクレンペラーも人が悪い。もっとも本人にしてみれば「ばーか、何が『帝王』だ。元ナチス (公然の秘密)の若造が!」ってな感じだったかも知れないが。


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2004.Same.,Fancy Free