今月のびっくりどっきりCD
特集・2011年の私的ベスト10(激遅)
(2013.1.26./2014.3.6.加筆)

 2011年の内に購入した新旧盤、中古盤含めて約200枚ほどから新譜を中心に選定。何故こんなに遅れたかといえば、全く文章を練っている暇が無かったというのが大方の原因。しかし今回はどうしても紹介しないと気がすまないタイトルが多く、飛ばすわけにはいきませんでした。

01. 滂沱必至、至高の“田園交響曲”

『ザンデルリンク・ベルリン・ライヴ1991』
 モーツァルト:交響曲 第39番 変ホ長調 K.543
 ベートーヴェン:交響曲 第6番 ヘ長調 op.68 “田園”

クルト・ザンデルリンク/ベルリン・ドイツ交響楽団
(独WEITBULIC KSSS0101-2)
 2011年に発売されたCDの中での正真正銘のベスト1と言える名匠ザンデルリンクの一夜の記録。パッケージにはベルリン・ドイツ交響楽団と表記されているが、この演奏会の時点(1991年12月)ではまだ西ドイツだったので正式にはベルリン放送交響楽団と呼ばれていた。

 それはともかく、この“田園”は数多の録音の中でも最高級の超名演。木管の小鳥のさえずり、弦の小川のせせらぎやそよ風の描写が全く陳腐に聴こえず、時にこの曲がブルックナーの先取りだ、と言われるのも頷ける。第3楽章でのホルンやクラリネットの絶妙の呼吸は全部一人で演奏しているんじゃないかと思えるくらい見事で、さらに第5楽章の冒頭部分の精妙さは滅多に聴けないもので(思わず目を閉じて一つ一つの音を噛みしめたくなる)、脳裏には雄大な雲の流れや夕陽に染まる山脈が広がる。この交響曲が決して標題音楽ではないにもかかわらずである。そして終盤の夕べの敬虔な祈りにも似た美しい音たちに言葉を失う。
 前半のモーツァルトも全く素晴らしい。当時既に盛んになりつつあった古楽奏法などには目もくれない従来通りのスタイルで演奏されるが、やはり音楽というのは内容であって方法ではない。要は演奏家を介して、音楽の向こうにベートーヴェンやモーツァルトたち作曲家の精神は確かに存在しているのか?ということなのだ。

 (だから「ボカロ曲は機械が歌っているから、本当の歌じゃない」などという一部の有名人や識者の物言いは、単に己の思慮の無さを曝しているだけといえる。「人間が演奏するから心がこもっている」なんて勘違いも甚だしい。音楽の向こうには何も見えない、心の無い「人間」の演奏家なんて掃いて捨てるほどいるではないか。)

02. 沈痛な響きの果てに待つ光明

佐村河内 守(新垣 隆):
 交響曲 第1番 (“HIROSHIMA”)
(2003)

大友直人/東京交響楽団
(DENON, 日本コロンビア COCQ-84901)※現在販売停止

 完成から6年後の2009年に抜粋の形で広島で初演、翌年春にに同様の形態で東京で再演、その秋に全曲版が京都で演奏されて徐々にその存在を知られるようになった、佐村河内守 (Mamoru Samuragochi, 1963- ) の畢生の大作。東京での再演と作品にまつわる詳細は以前の雑記を参照していただきたいが、一言で言えばこの曲は「“暗”から“明”へ」という、ベートーヴェンから交響曲に脈々と受け継がれる単純ながらも最も重いテーマに則って書かれた強靭な作品である。
 苦難や絶望(それは作曲家の生い立ちや境遇について大いに考えざるをえないが)を描いた音楽作品は言うまでもなく数多く存在し、中でも以前紹介したペッタションの所謂「暗黒交響曲」はその代表例だ。
 しかしペッタションの作品では己が苦しみをあくまで私的内宇宙へ収束していくものであるのに対し、佐村河内氏の交響曲は個人を取り巻く闇、個人の内の闇を描きながらも、やがてその闇にささやかな光が生じ、それが個人への希望の光にとどまらず隣人への光となり、さらに外へと放射される強力な意思の存在を予感させる。だから非常に長く厳しい表情の音の連なりに70分以上も付き合わなければならないが、最後まで耳を傾けた者の内側には必ず暖かい光が感じられることだろう。それゆえ、この曲のCDを渇望した人は少なくなかったに違いなく、それが東日本大震災の直後に録音されていたとは、人の縁の不思議を感じないわけにはいかない。

(2014.3.6.追記)
 ご存知の通り、代筆及び出生境遇詐称問題で現在本作品を含めた佐村河内名義の作品は封印扱いです。作曲の経緯やプロセス、その後の各メディアでの論争についてのコメントは山々ありますが、それはひとまず置いても作品についての個人的な評価は当時から変わることはありません。モーツァルトが小遣い稼ぎで弟子のジェスマイヤーと一緒に一晩でテキトーに書いたかもしれないセレナードが、今では推しも推されぬ名曲として聴かれていることを考えれば、件のスキャンダルは大した問題ではないのでしょう。(語弊がある言い方ですが)作品が残るも残らないも結局は人心次第で、専門家の論理が罷り通ることは絶対に無いのです。

 (・・・もちろん「この曲聴いて感動したのだったらマーラーやブルックナーも聴いてね、もっと凄いから」と、個人的には思っていますが。)

 (あと、偶然でも地震の後に発売されたというのは、単純に商売としてはベストタイミングと言わざるをえない。でも「広島」は乗っけなくても良かった気がします。タイトルは無かったままの方が黙示録的でいろいろ想像の余地があって面白かったと思う。)

 ところで『現代のベートーベン』(←低レベルな発想)などと(急に)勝手に持ち上げて激賞しておきながら、代筆が明るみになった途端に掌を返す論調に切り替えたマスコミの蝙蝠体質は許されざるものではないだろう。こういう姑息なところは戦前から全く変わっていません。もちろん永久に反省しないと思うけれど。マスコミは「そういう」ところなので。

03. 遂に真価を見せた幻の超巨大交響曲

ブライアン:交響曲 第1番 ニ短調 “ゴシック”

スーザン・グリットン(s),クリスティーネ・ライス(Ms),
ピーター・オーティ(t),アラステア・マイルズ(Bs),
マーティン・ブラビンズ/BBCウェールズ・ナショナル管弦楽団,
 BBCコンサート管弦楽団,BBCウェールズ・ナショナル合唱団,他
(英hypeion CDA67971/2)
 ヴィクトリカ可愛いよヴィクトリカ。いやそーじゃなくて。2011年に行われた世界中の演奏会の中でも大事件と言われ、まるで某声優のライヴのようにチケットが発売直後に瞬殺されてしまったという、ブライアン (Havergal Brian, 1876-1972) の《ゴシック交響曲》のプロムスにおけるライヴ録音(2011.7.17.)が早くもCD化。

 その演奏会については以前雑記に書いた通りなので繰り返さないが、あの音響特性が良いとは言えないロイヤル・アルバート・ホールでの録音にもかかわらず、作品の全貌は概ね捉えられているといえるのは幸いなことだ。もちろん強奏時で音が飽和状態になったり、合唱の歌詞がはっきり聴き取れない部分があるにしても(多分現場に居ても無理な話だ)。そんなことよりも重要なのは、この録音が演奏の質と覇気において既存のCDを遥かに凌駕しているということだ。何しろ大抵の曲には抵抗がない自分がこの曲に限ってはボールトやレイナルトのCDに手を伸ばすのも億劫だったのに(本当にただ持っているだけ)、このCDの発売前にBBCの生中継のアーカイヴを録音してさんざん聴いているにもかかわらず入手してからも何度も聴き、とうとう面倒になってPCに取り込んでしまったくらいなのだから。

04. これは何かの陰謀じゃよ!(byファーザー)

橋本國彦:
 交響曲 第2番
(1947)
 3つの和讃 (1948) *
  (宝林宝樹微妙音/清風宝樹をふくときは/一一の花のなかよりは)
 感傷的諧謔 (1928)

湯浅卓雄/藝大フィルハーモニア,福島明也(Br)*
(ナクソス・ジャパン 8.572859J)
 皇紀2600年記念に政府からの委嘱で書かれた《交響曲 第1番》が2001年にようやく初録音されたばかりという、名前ばかり有名で実態を知られていない大変不遇な橋本國彦 (1904-1949) の新録音。しかもまたしても《交響曲 第2番》と《3つの和讃》が世界初録音である。

 《交響曲 第2番》は日本国憲法制定記念で「当局」(勿論背後にGHQ)から委嘱された作品で、初演時には“祝典交響曲”と題されていた(本人が承認していたかどうかは不明)。そんな重要な作品にもかかわらず、当時の文書には記録が残らず今の今まで全く忘れ去られていたというのは信じがたい話だ。私見ながらこの曲は同時代のプロコフィエフの交響曲などよりもはるかに優れたものだと言えるし、こんな秀作が長年黙殺されていたというのはもう《第1番》と同様に何かの陰謀か悪意があったとしか思えない。
 憲法改正云々と何かと騒がしいこの時期には大変タイムリーな作品だが、そんな外的要因はさておいて、作曲家の早すぎる晩年に書かれた堂々たる純音楽的作品に虚心坦懐に耳を傾けてはどうだろう。
 《3つの和讃》は親鸞聖人の『浄土和讃』から採られた言葉による管弦楽伴奏歌曲で、仏教の和讃の詠唱とイタリア歌劇に代表されるベルカント唱法との融合を図ったもの。ヴェルディ等の劇場的空間と日本の抒情が見事に共存している、というかフツーにカッコいい。
 《感傷的諧謔(スケルツォ・コン・センチメント)》は橋本の若い頃の作品で、開国から僅か60年で近代西洋音楽もまだ浸透していたとは言えない日本で、既にブルックナー風の大規模なスケルツォが書かれていたというのは驚嘆すべきことだろう。

05. 贅沢エコロジー

『イングリッシュ・スプリング』
 バックス:交響曲“スプリング・ファイヤー”
 ディーリアス:“春の牧歌”,“春の行進曲”(《北国のスケッチ》より)
 ブリッジ:“春の訪れ”

マーク・エルダー/ハレ管弦楽団
(英HALLE CONCERTS SOCIETY CD HLL 7528)※CD-R
 エルガーの主要な管弦楽作品をシリーズ録音しているエルダー&ハレの、エルガー以外の作曲家の作品でイギリスの春をテーマにした一枚(リリースは夏だったけどw)。

 まず目を惹くのはバックス (Arnold Bax, 1883-1953) の番外の交響曲“スプリング・ファイヤー”である(自分がこのCDを入手した最大の理由)。「夜明け前の森にて」「暁と日の出」「終日」「森の国の愛」「バッカスの巫女たち」と題された5つの楽章から成るが、これらは続けて演奏される。荒涼とした心象風景を描いた7曲の番号付き交響曲とは異なり、夢幻的な妖精の世界を描いた作品で、例えるならイギリス風「ダフニスとクロエ」といった感じ。なかなか美しい作品だが、滅多に演奏の機会も録音も少ないので新たな音源は大歓迎。
 他の二人の作品も実質的には交響詩で(特にブリッジのものは名作として知られる)、イギリス(主にスコットランドやアイルランドの方)の春の風景が綿々と描かれる。主題の関係で下手をすればつかみどころのないものになってしまうところをエルダーのメリハリのある指揮で、気持ちの良い音の風景画として聴き入ることができる。尚、2010年に取上げたエルガーの盤でもふれたが、このレーベルは正規盤でもCD-Rなので注意。

06. 忘れられたロマン派の銘品

クルークハルト:
 ヴァイオリン協奏曲
ニ長調 op.68 *
 交響曲 第3番 ニ長調 op.37

ミリアム・チョップ(Vn)*
ゴロー・ベルク/デッサウ・アンハルト・フィルハーモニー管弦楽団
(独CPO 777 465-2)
 クルークハルト(August Klughardt, 1847-1902)はケルンで生まれたブラームスやワーグナーと同世代の音楽家。ワイマールやデッサウの宮廷楽団の音楽監督を歴任し、1893年にはワーグナーの《ニーベルングの指輪》の全曲公演をデッサウで試みている。作曲家としては4つの歌劇、5つの交響曲の他、様々な管弦樂曲や声楽曲を残しているが、今日省みられる作品はごく少ない。10年前にSterlingレーベルからリリースされた《チェロ協奏曲》と《オーボエ小協奏曲》等が注目すべき内容だったのだが、その後この作曲家の作品を聴く機会はついぞ訪れず残念に思っていたところ、このCDの登場である。

 《ヴァイオリン協奏曲》はクルークハルト晩年の作品で、ブラームス的な古典美と叙情性にワーグナー風の劇性とスケール感を加味した力作。勇壮な第1楽章から叙情的な第2楽章と第3楽章までは切れ目無しに演奏され、快活な第4楽章で締めくくられる。第2楽章は第1楽章の終結部の旋律を受け継いで逡巡するような表情の短い楽章、対して第3楽章は息の長い歌うような旋律が美しいが、この2つの楽章はいわばオペラのレシタティーヴォとアリアの関係でワンセットとみることができるので、この協奏曲全体はメンデルスゾーンやブルッフの流れを汲む典型的なロマン派協奏曲と位置づけることができそうだ。独奏パートも技巧的で華麗であり、作曲家のネームヴァリューの無さのために演奏される機会がほとんど無かったというのは不運としか言いようがない。
 《交響曲 第3番》はロマン派の交響曲として及第点という感じ。第1楽章は気宇壮大でなかなかの出来だが、残りの楽章がお互いの楽想の関連性やドラマ性に不足し散漫な印象を受ける。これは演奏のせいではないだろう。ともあれ、協奏曲の方はその内容もさることながら演奏も上等でこちらだけでも一聴の価値有りである。

07. 想い出の名演がようやく正規盤に

マーラー:
 交響曲 第2番
ハ短調 “復活”

キャスリーン・バトル(s),クリスタ・ルードヴィヒ(Ms),
ジェームズ・レヴァイン/
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団,ウィーン国立歌劇場合唱団
(独Orfeo C837112B)
 レヴァインがヨーロッパで大活躍(?)していた頃の1989年のザルツブルク音楽祭のライヴで、NHK-FMでも放送されて話題になった演奏。当時レヴァインはRCAにマーラー交響曲全集を録音中で、あとはこの《第2番》と《第8番》を残すのみだった。完成していれば秀演揃いの全集となったはずだが、大方の予想を裏切ってこの2曲はとうとう録音されずに未完となってしまった。
 あの時は本当に残念に思ったものだが、これはそう思わせるだけの演奏で、遅まきながらその時の記録が正規盤としてリリースされて多くの人が聴けるようになったのは有難い。ともすれば暗く篭りがちになるウィーン・フィルの音がレヴァインの(良い意味で)アメリカンな指揮で明るい艶のある響きを保ち、必要以上に深刻になることを免れている。その結果、前半は多少響きが軽めであることは否めないが、終楽章の力強く輝かしい高揚感は何にも代え難いものとなった。締めくくりの5分は最高の聴きものだ。

08. ようやく登り始めたばかりだからな この果てしなく長い無伴奏坂をよ…

『バッハ&レーガー:無伴奏ヴァイオリンのための作品集』
 レーガー:前奏曲とフーガ op.117-1&2,シャコンヌ op.117-4
 バッハ:ソナタ 第1番,パルティータ 第1番&第2番

庄司紗矢香(Vn)
(仏MIRARE MIR 128)
 2006年のN響定期でのノリントンとの共演を聴いてから個人的に応援対象になった庄司紗矢香の新録音。
 バッハとレーガー (Max Reger, 1873-1916) という100年ほど時代の違う音楽を交互に聴かせる構成はなかなかトリッキーだが、実は聴き手は両作曲家のイメージについて改めて問おうという、非常に硬派な意図をこめているのではないか。弾いている方もただでさえ演奏の彫琢が困難なバッハの無伴奏作品を、バッハの後塵を拝してより内省的なレーガーの無伴奏作品と組み合わせるのだから、さらに苦行の様相を呈している。しかしここで聴かれる演奏は非常に美しい。それは耽溺するようなものではなく、凛としてビターな響きだ。
 アルバムの終盤、レーガーのシャコンヌを経てバッハの稀代の名作であるシャコンヌに到達した時、一つの楽器が切り開いた世界で聴き手に何が見えるだろうか。そしてこのアルバムでバッハの6つの無伴奏ヴァイオリンのための作品が丁度半分聴けたことになるが、残り3曲を今後どのような形で聴くことができるのか楽しみに待ちたい。

09. スーパーリサイクルショップ・バッハ

『J.S.バッハ:カンタータからのシンフォニア』
 “神よ、我ら汝に感謝す”BWV.29,“主よ、我は汝を求む”BWV.150,
 “されど同じ安息日の夕べに”BWV.42,
 “心も魂も乱れ果て”BWV.35,
 〜シンフォニアやソナタ他、全19曲

オッターヴィオ・ダントーネ(org&指揮)/アカデミア・ビザンティナ
(英DECCA 478 2718)
 バッハは教会暦に則したカンタータを約200曲残したが、それらは合唱と独唱で構成されただけではなくて冒頭に序曲的な器楽曲を置く事もあった。 それらは「シンフォニア」とか「ソナタ」などとと呼ばれていたが、このCDはその類ばかり演奏しているもので、実は今までありそうでなかった好企画。

 各カンタータの福音書的なタイトルはこの際忘れ独立した曲として聴けば、オーボエ協奏曲風のもの、オルガン協奏曲風のもの、あるいは合奏協奏曲風のものなどスタイルは様々で楽しめるだろう。しかもそれだけではない。バッハはこの種の曲に過去に書いた器楽曲を編曲・転用していることもあり、御馴染みの曲が全く別の顔をしてちゃっかり居すわっていたりする。このCDではいきなり1曲目の《BWV.29》のシンフォニアが《無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 第3番》の「前奏曲」を編曲したもので、超絶技巧の独奏曲がここではオルガンやトランペットやティンパニが活躍するド派手な曲に変身している。他にも《チェンバロ協奏曲 第1番》や《同 第5番》、《ブランデンブルク協奏曲 第1番》や《同 第3番》を原曲とするものも入っているので順を追って聴けば「あれれ〜?」(by高山みなみ)となること受けあい。

 カンタータに興味はあっても合唱とか宗教とかめんどくせーとか思う人は少なくないが、そんな理由でバッハのこの「匠の技」を聴き逃すのは愚の骨頂だ。優れた鍵盤楽器奏者であるダントーネがオルガンも兼ねて指揮をする古楽器集団アカデミア・ビザンティナの演奏はノリが良くて、楽しさ倍増である。

10. 北の最終兵器の伝説はまだまだ続く

チャイコフスキー:
 交響曲 第1番
ト短調 op.13 “冬の日の幻想”
ストラヴィンスキー:
 バレエ組曲“火の鳥”
(1945年版)*

エフゲニー・スヴェトラーノフ/
 BBC交響楽団,フィルハーモニア管弦楽団(*)
(英ICA CLASSICS ICAC 5007)

ショーソン:
 交響曲
変ロ長調 op.20
フランク:
 交響曲
ニ短調 op.48

エフゲニー・スヴェトラーノフ/スウェーデン放送交響楽団
(独WEITBLICK SSS0125-2)
 スヴェトラ御大が亡くなって10年が経つが今も既発売音源の再発売のみならず過去のライヴ音源が続々と発表され、死してなおも快進撃という状態。御大恐るべしである。そしてこの2枚はその中でも特に推したい初出音源。

 2002年の《冬の日の幻想》は御大生涯最後の演奏会として知られているもので海賊盤も出回っていたが、これが正規発売。凄い推進力とうねるようなカンタービレはとても死を前にした人の演奏とは思えない。BBC響はオケとしては決して一流とは言えないが、ここでは完全に御大の手足となって自在な演奏を展開している。
 1996年の《火の鳥》は今まで知られていなかった初出音源で、御大とのセッション録音ではあまり芳しい成果が挙げられなかったフィルハーモニアだったが、ここでは別の団体のような名演を披露している。あまり演奏の機会が無い1945年版を使用している点もポイントが高い。

 スヴェトラーノフは生涯に渉ってスウェーデン放送交響楽団に度々客演し、国営放送のアーカイヴには多くの名演・奇演・爆演が残されているが、それらが少しずつ正規盤としてリリースされはじめている。
 ロシア人指揮者である御大とフランス音楽は意外に相性が良かったことを証明するのがこのCDで、特に死の年である2002年のライヴのショーソンはあまり演奏機会に恵まれずレパートリーに入れている指揮者も多くないこの曲の中でも一、二を争う名演と言っていい。この作品の演奏としては例が無いほどの超スローテンポによる異形の表現だが、曲が破綻しないばかりかショーソンの音楽に介在するワーグナー的な特質を十全に引き出した圧倒的な名演である。
 フランクの方はそれよりかなり前の1979年の演奏でテンポは常識的なものだが、やはりこの曲のドイツ音楽的な側面を強調した逞しい表現で、凡百の演奏とは一線を画すものだ。

 01から04は掛け値なしの記念碑的な名盤と言って差し支えない。01はもう既に心の福音書になった。02はもう別の意味でも記念(T_T)。06の前半はあまりの曲の良さにびっくりである。09の面白さは無類。10はもうとにかく面白い。音楽はこうでなければ!という感じ。


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2012-2014.Same., Fancy Free